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秋山家墓地

秋山好古(あきやま よしふる)陸軍大将
・安政6年1月7日生、昭和5年(1930)11月4日没、享年72歳。

・松山市徒歩町で下士の三男に生まれ、小学校の代用教員を経て、大阪師範学校を卒業。教員生活数カ月にして、陸軍士官学校騎兵科に入学。陸軍大学校でドイツ人メッケル少佐の薫陶を受けた後、フランスに留学して騎兵学を極める。帰国後は、騎兵実施学校長に任命され、「日本騎兵の父」として後輩の育成にも力を注いだ。

・日清戦争では、騎兵第一大隊長(少佐)として主に清国軍の探索活動を担当し、全軍の作戦に大いに寄与して第一師団長の感状を頂くが、騎兵砲の必要性を痛感。

・日露戦争では、騎兵第一旅団長(少将)としてロシア軍の探索や後方霍乱に活躍したのみでなく、「黒構台の戦い」では30キロにも及ぶ最左翼を守備し、僅か8千の兵で10万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。好古の申し出によって、日本陸軍で初めて配備されていた機関砲(騎兵砲)が、この戦いで大活躍した。

・乃木大将のような無謀な突撃はさせないが、陣地の死守を決意すれば梃でも動かず、窮地に立った時は悠然と酒を口にして、弾の飛び交う最前線に身を曝し、部下の将兵の士気を高めた。自らが携帯していた武器は、おもちゃのような指揮刀と自決用のピストルのみだったが、敵弾で唇にかすり傷を負っただけの元気な姿で帰還した。

・外人将校に間違われる程の立派な風貌だが、身だしなみには全く無頓着だった。風呂は戦地に出ても一度くらいか入らず、洗顔もめったにせず、下着もろくに着替えなかったので、天気の好い日にはよくシラミ退治をしていた。

・大変な部下思いで、知人から戦場に大好きな洋酒が4ダース届けられた時には、その1本だけ取って残りは全部部下に分けた。タバコ、時計、万年筆のもらい物も、全て欲しがる者に譲り、給料の大半も郷里に凱旋する部下に分け与え、好古が持ち帰ったトランクには、品々の目録と給与の明細書ばかりが詰まっていた。所有欲に乏しく、大将という地位にありながら借家暮らしで、墓も粗末な物しか造らせなかった。

・4尾役となった6歳の年(対象12年)に、友人に請われて松山の北予中学校の校長に就任。毎日馬で投稿し、1日も欠勤や遅刻をせず、きっかり20分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であった。時間には相手を問わず厳しかったが、生徒を怒鳴ったり体罰をふるうことはなく、軍事教練もやらせなかった。

・72歳の時(昭和5年4月)に、老齢と健康上の理由で校長を辞職し、7月に上京した長男の家で、長年の飲酒からくる糖尿病による脱疽(欠陥が詰まって足が腐る)が発病。陸軍医学校で左足切断手術を受けるも、脱疽菌が全身に廻って他界した。葬儀委員長は、好古を恩人と慕った、後輩の白川義則陸軍大将が務めた。

※秋山好古墓は、古い先祖墓9基も整理して建立した。昭和7年の三回忌に建てられた「永仰遺光」の碑文は、「永く仰ぎて光を遺す」と読め、秋山大将を永遠に景仰して、その威光を未来に伝えるという決意が込められている。





墓は、東京の墓の分骨墓である。
なお、子孫の発奮を促すため遺言により粗末な墓を希望した。

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